千葉商業高校(中退)→大洋ホエールズ
入団後2年間は結果が出せず、整理対象選手に選ばれかかるものの
1964年に速球と大きなカーブを武器に17勝をマーク
1965年も21勝をあげる、その後もさらに二度の二桁勝利を挙げたが
酷使の影響か70年71年は未勝利だった
72年にサンフランシスコ・ジャイアンツの3Aに野球留学(え
1勝3敗防御率4.80と結果はイマイチだったがそこで何か掴んだのか
翌年に大洋に復帰し9勝を挙げた
78年にスピードガンが導入されると超スローボールを武器に大洋の中継ぎの中心選手として活躍した。
80年に現役引退。
その後は現役時代に得意としていた阪神で投手コーチ(1、2軍)などを務めた
2010年3月1日死去 満64歳没
査定のあれこれ
キャリアハイの1965年を元に査定
適正………先発として30登板中継ぎ抑えとして29登板、試合終了までの中継ぎ登板が23登板なので先発と抑え適正を最大に
スタミナ………文句なしのAていうかSにしたかったぐらいには投げてる。ただ、中継ぎとしての登板も多いのでAに(経験値不足の面もある)
回復………中継ぎ先発含めて59登板は普通にA 277イニングは1965年のセリーグで2番目に多い
コントロール………死球が12と1965年セリーグ最多だが四球は少なく与四球率は2.24無四球試合も2試合記録するなど良い、このせいで乱調も付けにくいため与死球の再現は断念
重い球……奪三振率が非常に低く(キャリアで奪三振率7以上が一度もない)グラウンドボウラーだったと推測
尻上がり……完投11完封5
カーブ………シュートが1になることも踏まえて総変化を9にした、小さなカーブを使った話がないので変化量は2、6ではなく5、3に